書評:湯山玲子『女装する女』

友人から「tremensさん、服装を意識的に選んでいるでしょ?読んでみて」ともらった本なのである。
松岡正剛の『知の編集術』を読んだばかりだったので、線を引いたり書き込みをしたりしながら読んだ。新書はこうして読むほうが内容が頭に入ってくる。小説は手を動かすことももどかしくじっくりとその世界に入っていくような読み方をするけれども。

本書は現代女性のキーワードを10の言葉で表したものである。 「女装する女」、「スピリチュアルな女」、「和風の女」、「ノスタルジー・ニッポンに遊ぶ女」、「ロハス、エコ女」、「デイリーエクササイズな女」、「大人の女になりたい女」、「表現する女」、「子供化する女」、「バーター親孝行な女」

女性のファッションは、いまやその意味を二分化されてしまっている、というのは、女性ならみな身を持って知っていることだろう。

ひとつは、遊戯性を持つものである。たとえばシックなパンツスーツに身を包んだとしても、かわいらしく凝ったネイルを自分の手元に置き「女を遊ぶ」。女性同士で集まるときにあえてデコラティブに着飾る。そういったことで日々のストレスのガス抜きをすることが女性には許されているのである。ここには異性の目は不在である。 三浦しをんのエッセイにも書かれていた。

女は、「女になる」コツさえつかめば、あとは「女でいる」ことは比較的簡単なのだ。しかし男は、「男になる」必要はなく、ただひたすら「男でいる」ことを求められる。(「悶絶スパイラル」p.21)

カンタンでかつ楽しい。今の女性ファッションのキーワードのひとつである。

もう一方は、「エビちゃんファッション」にあらわされるような「武器としてのファッション」である。数年前に大流行した際には恐るべき攻撃力を持っているなあ!と感心したものである。しかしすでに「エビちゃん服」で狙撃できるターゲット自体が絶滅種に近くなってきているので、流行も下火にならざるを得ないであろうと私は思う。(だからCanCamは発行部数を減らしてきている。)

「コンサバ」で女子がターゲットとしていたのは、「コンサバ」な男子だったのである。「スタイルやビジュアルはそこそこでも良いから、最終的にあたしと子供を食べさせていけるだけの貨幣を持って帰ってきてくれるひと」という。 もはやそれは贅沢すぎる望みであるということを私たちは知っている。また、遊びを知り生活の充実を知った私たちが、はたしてその楽しみを家庭と子供だけで満たすことができるのか?という不安もある。

ならば、これからの「武器としてのファッション」は、自身で外貨を稼ぐためのものになる。本書で例に出ていた「女性プロデューサーが大手タレント事務所の海千山千社員と交渉をする際は、あえて高級ブランドのスーツと靴に身を包み、高級ホテルのラウンジで面談を行う。サラリーマン、かつ女性であるということでなめられぬようこけおどしをおこなうのである」というような。

しかしこの例すらも、バブリーでアラフォー的だ。全体的によくリサーチされ、かつ文章に力があるので面白く読めるのだが、どうにもこうにも下世話で派手なにおいが鼻につく。 女性が「女性を遊べる」ようになったということは賛同できる。しかしその例に「この間の旅行ではモロッコでリムジンチャーターしてオアシス巡りしたわ・・・」って!どこの一流企業だよ!

とはいえ、ここまでではなくとも自分のために多くの金を使えるのが女性である。現代女性の欲望を明確にパターン分類しているので、そこからビジネスモデルを考えるのは面白いかもしれない。