書評:諏訪哲史『アサッテの人』

主人公は語り手の叔父なのだけど、この人は物語の始まりにはもう失踪してしまっていて、本人が登場することは全くない。叔父について知る手段は本人が残した日記、亡くなった奥さんが残した手記、語り手の記憶のみ。

この物語の感想を述べる時に「言葉を使って説明するしかない」というところが皮肉だ。教えを説くことを嫌って問答形式を好んだソクラテスについて、彼の思想を講義形式の授業で説明しちゃうような、複雑な気分。でも、語らずにはいられない。

人は誰でも生まれた瞬間から何らかの言語体系にさらされるわけで、それを習得しなければ周りの人間とコミュニケーションが取れない。言葉は自分の考えを表現するためにあるものだと思いがちだけれど、よく考えてみればそれは手段として働くのみではなく、私たちのものの見方をある程度の割合で支配している。

私だって自分の感覚を表現するために的確な言葉を探しているつもりでも、言葉がもともと持っているイメージに頼って自分の感覚を他人に受け入れられやすいように変質させていることに思い至ることがある。何とかその窮屈さから逃れたいとも思うし、「もっと作為なくできるだけそのままこの思いを届けたい」と思うこともあるのだけれど、他人に伝達するにあたって初めて改変が加わるのではなく、実は自分が自分の感覚を掴む時にもう何らかのフィルターがかかっているわけで、どうしたって言葉による制約から自由にはなれない。

その場の状況、相手との関係などで発すべき言葉が決まってくる瞬間が日常には何度も訪れる。スーパーで顔を合わせた知り合いに「暑いですね」と声をかけるのもその一つだろう。これがいきなり「貸し出しでお願いします」だったりすれば、相手はびっくりして私の正気を疑うはずだ。図書館のカウンターで発すれば自然に受け止められる言葉なのだけど…。

主人公の叔父は人為的にあつらえられたかのような格好の場面が苦手だ。新婚夫婦の食後の語らい、若い二人の些細な言い争い、鳩にパンをまく老人にもう一人の老人が声をかける小春日和…などを目にすると「定式が完成した!」と感じ、たまらなくなって奇声を発する。

「ポンパ」「タポンチュー」「チリパッハ」など。

脈絡なく突然発されるその声に周りの人は度肝を抜かれることもあるのだけど、そこに他人の思惑をくじかせるために話を脱臼させる人間が見せるあざとさは微塵もない。

《日常のあらゆる定式から身をかわす》この「アサッテ」的態度はあくまで衝動的なものでそこに作為は認められない。

ただ、「アサッテ」は「アサッテ」だけで独立したものではないというところが問題だ。「アサッテ」は日常に潜む凡庸を強く意識するところから生じる《反動的衝動》であって、凡庸のないところに「アサッテ」はあり得ない。そのため「アサッテ」をより完成したものにするために叔父は意識的に日常の凡庸に注意を向けるのだけど、それが高じると途端に「アサッテ」も《作為》の産物になってしまう。衝動と作為は相容れないはずで、「アサッテ」が作為的になるということはそれがもう《日常のあらゆる定式から身をかわす》という役割を果たしていないということになってしまう。

子どもの頃吃音に苦しんだ叔父は、みんながその中にあってスムーズにやり取りをしていると思われる言語的統一から、自分がはじかれているという疎外感を覚える。ある日突然吃音が治って、どんな単語でもスムーズに発音できるようになった叔父は言葉を自由に操れるようになったと思いきや、自分が言葉の支配下に置かれているということを強く意識することになる。そこで生まれたのが叔父の「アサッテ」だ。しかし、「アサッテ」を突き詰めていった叔父は結局それに絡め取られている自分に気づく。

叔父の失踪の原因も、その後叔父がどうなったかも、この小説では明かされない。物語らしいエンディングを必要としないのは扱うテーマからいっても当然の成り行きなのだが、それを「『アサッテ』を扱う物語として定式通りのエンディング」と言ってしまえば言えなくもない。その矛盾を露にするところがこの物語の最大の魅力だと思う。

すごい作家さんだなぁと思って、いっぺんにファンになってしまった。