本を、特に小説を読む楽しみのひとつに、「物語の中から自分を発見できる」ことがある。
主人公や登場人物たちに自分を照らし合わせて共感できる部分を探し、その行動の真意を考える。もちろん、共通項が多い物語は楽しい。しかしそうでない物語も「どこが違ってどこがわからないのか」を考えながら読む。そうするとふとした点から共感が立ち上がってきて、「ああそうか、私にもこういう(考え・もしくは感情)があったんだな」と気づく。
読書を通じてとはいえ他人のこころに寄り添うことで、普段は漫然とつきあっている自分の(考え・もしくは感情)に真摯に向き合うことができるのである。
しかし、これはなかなかに恥ずかしい行為である、と私は考えている。
自分にだけ焦点を合わせた読み方は自慰行為のようにも思え、あまりひとには知られたくない感情の動きである。もちろんそうして自らを知ることも大事なのだけれども、おおっぴらにやっていいことではないような気がする。
(つまりそういうレビューを書き連ねる私はある種の“露悪趣味”がある・・・ということになる。すいません。いつも変なものお見せして。しかし、そう考えると“覗き見趣味”というものもあるわけだから、シュミの需要と供給が成り立っていれば良いとも言えるな。)
小説の読み方としては他にも、「隠された意味を解き明かす推理的読書」や「作者や社会背景と照らし合わせる歴史絵巻的読書」などがあるが、どれにしても「本を読んで、『わかり』たい」という欲望が背景にある。
以前、日経ビジネスオンラインの
「「わかる」は脳に気持ちいい。問題はそのあとだ。」
という記事を読んだ。
「わかる」の基本は、じつのところ、この「自分の既知の図式にものごとがハマった、それが快感として脳に刺戟を与えた、という反射」である。
「わかりやすい」物語はベストセラーになるし、量を読みきちんと読書しようと心がけてしまうひとは「図式を考えてわかろう」とする。だってそのほうがキモチいいんだもん!ということだ。
しかしたまには、わからないままに翻弄されることを楽しむ小説も良いのではないか。
「倉橋由美子『聖少女』」は、そういう小説だった。
事故に合い記憶を失った少女未紀と、未紀の婚約者だという「ぼく」。少女の手元には一冊のノートが残されていた。ノートは「いま、血を流しているところなのよ、パパ。」と始まる、未紀の手記であった。「ぼく」は未紀のために、ノートの解読にとりかかる。
「なぜ、だれのために?パパのために、そしてパパをあいしたためにです。」・・・。
年の離れた恋愛、父と娘、姉と弟という近親相姦を背景におきながら、息詰まるほど近い濃厚な親密さと、消えてしまいそうなほど希薄で乾いた関係性が同時に描かれている。
未紀も「ぼく」も、そのほかの登場人物にも、虚構の香りが付きまとう。ノートも含め、誰がほんとうのことを言っているのかは決してわからない妖しさがある。
罪と性の色合いを持つ悪魔的な美しさで文章は紡がれ、読みながら酔っ払ってくるようで楽しい。
「子どもはあたしを喰いあらして高貴な猛獣に成長し、あたしには平和な下降と衰退がおとずれる。幸福。少しずつ死んでいくこと。あたしはおちついた女の声で、駅マデヤッテチョウダイといいました。
ごめんなさい、パパ。あたしはただ、パパをおこしたくなかったのです。いつまでも眠っていてほしかったの。そのまま死んでしまうほど長く深く。(p.80)」
「ぼくは未紀に欲望を感じていたのか?裸でぼくの眼のなかを泳いでいる未紀は、ぼくをかなしませた。かなしみとは適当なことばではないが、とにかく未紀はぼくの内臓をくすぐったりひっぱったりするようなしかたでぼくの対象になっていた。(p.121)」
読みながら「なるほど」なんて思う必要はない。思いたくない。共感もここには必要とされない。ただ、直截的に魂で物語を受け止めるおもしろさがある。
「物語」そのものが「聖少女」の幼さや純粋さ、気高さ、妖しい色気、惑い、成長の拒否などを含んでいて、そりゃまあ翻弄もされるよな、というあきらめと共に本を閉じるしかないのである。美少女に振り回されるのもたまには楽しい・・・。
文章がなんとなく村上春樹の先駆けっぽいなと思ったら、セイゴオ先生のブログにもそんなことが書いてあってちょっと嬉しかった。