書評:小倉千加子『セクシュアリティの心理学』

フェミニズムの視点から書いた、セクシュアリティをめぐる心理学の本。
「性差」の学問的・社会的起源を丁寧に記してあるので、非常に勉強になった。
自分の中で混乱していた「性」の定義・・・セックス、ジェンダー、セクシュアリティ、と、多数の次元で語られねばならないなんて、混乱して当たり前、とすっきりする。

生物学的に明確に「男」「女」がわけられることはない。遺伝子も形体も心も2元論では表現できないさまざまな形があることは周知のとおり。食欲や睡眠欲ですら環境や文化で変化してしまうこの世界で、性と性欲だけが「本能」の名の下にシンプルであるはずはないのだ。
言語においてカテゴライズされるからこそ性差があらわれてくるのだとすると、言語化されるさまざまな次元を知ることで、その性の多様は社会において受容されやすくなるのではないだろうか。

たとえば近代に入っても、ついこのあいだまでセクシュアリティをジェンダーで説明していた時代があった。「仕事をして社会に進出して身を立てること」は「性的倒錯」「女らしさの拒否」として、病としてみられることすらあったとか。
「性」は本能ではなく、変容可能なものである・・・。欲望の対象をヘテロに限るのがノーマルだなんて思えなくなってきそうだ。どのセクシュアリティのありかたも選択できるように、社会の受容の幅が広がるようになればよいと本当に思う。

私がフェミニズム本を読む理由はここにあるのかもしれない。
女性の権利が、というよりも(あまりに理不尽なものはもちろん反発を覚えるけれど)、「本能」や「性差」の名の下に、たった2種類に押しこめられていたひとそれぞれの欲望を、なるべく受容できるようにはならないものか、ということ。
多様なセクシュアリティを受け入れられるように、経済や社会が変化すれば世界はすごしやすいのに・・・と考える私は、やっぱり欲望主体で生きているのか・・・。

私は、男性のホモソーシャルな関係を、つねづねキモチワルイと思っていた。運動部やプロジェクトグループでみかける男性だらけで固まって熱くなるア・レ(なんかヤラシイ表現だなー)。男性並(とされる)能力を持つ女性も「名誉男性」としてそのお仲間に入れてもらえることもあるけれど、ひとつの目的に進む単一的な性の団体はやっぱりどうみてもキモチワルイ。
欲望の対象である「女性性」を排除することで、その団体は清廉で高潔なもののようにみえるけれど、実はホモセクシャルな欲望の抑圧を隠しているんじゃないの?と思ってしまう。

本書の第8章には、「男性は父親を同一化の対象とおき、かつ家庭内においてその対象者は優位なものとして位置づけられている。男は男を尊敬しながら同一化していくため、男性の方がホモソーシャルな社会を作りやすい。一方、女性は母親を同一化の対象とせねばならないのに家庭内では劣勢なものとしてみなされているため自己肯定感が低い傾向がある」という記載がある。

なるほど・・・と思ったのはさておき、私は、そうした男性たちのホモソーシャルな世界をホモセクシャルな欲望の抑圧と見抜き告発したのは、ホモソーシャルの巣窟、それこそが王道とさえされている「少年漫画」を次々とボーイズ・ラブ化してみせた日本の同人作家なのではないか!?と思いあたったのだった。
しかも、「真に対等な愛情の交換は男女間では行えない!」と、BLの世界の中で女性が望む「対等な愛の物語」を表現する・・・! ううーん。

日本の漫画文化って、特に女性の表現方法として、やっぱりかなり進んでいるよなあ、と思うのだった・・・。